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    カテゴリ: 歴史


    シリーズ最新作『三國志14』今冬発売! 取って、取られて、取り返して。「土地」を制する者が天下を制す - PlayStation.com
    待望のシリーズ最新作『三國志14』今冬発売! "土地の管理、奪い合い"をコンセプトに、内政、戦闘、外交、計略すべての要素が「土地」に集約。 取って、取られて、取り返し ...
    (出典:PlayStation.com)


    三国志 (三國志からのリダイレクト)
    三国志(さんごくし、繁体字: 三國志、拼音: Sānguózhì、満州語: ᡳᠯᠠᠨ ᡤᡠᡵᡠᠨ  ᡳ ᠪᡳᠳᡥᡝ、転写: ilan gurun-i bithe)は、中国の後漢末期から三国時代にかけて群雄割拠していた時代(180年頃 - 280年頃)の興亡史である。
    26キロバイト (4,163 語) - 2019年7月26日 (金) 05:51



    (出典 blog.asakusa64.tokyo)


    曹操は、。

    1 樽悶 ★ :2019/08/28(水) 02:36:28.75


    (出典 amd.c.yimg.jp)


    東京国立博物館の特別展で話題となっている「三国志」。現在発売中の月刊誌『歴史街道』9月号では、「三国志・男たちの五大決戦」と題し、官渡、赤壁、五丈原など5つの決戦を取り上げ、名将たちがいかに決断したかに迫っている。

    (前略)ここでは、三国志研究の第一人者である渡邉義浩氏による解説を紹介しよう。

    ※省略

    『演義』では悪玉とされる曹操ですが、史実においては、桁外れの行動力と変革力を発揮しており、規格外の「時代の変革者」と評せます。当代随一の兵法家でもあり、この時代における一番の天才といってもいいでしょう。

    彼が成そうとした最大の変革として、「儒教の相対化」が挙げられます。漢の国教とされた儒教は、漢を「聖漢」、すなわち「聖なる漢」との教えを説き、その体制を支えていました。

    しかし、そうした漢の体制が行き詰って、国が乱れているわけですから、曹操は新たな時代を創造するためには、儒教第一主義を否定しなければならないと考えました。

    その手始めとして、「唯才主義」による人材登用を主張します。それまでの漢の官僚登用は「孝廉」、つまり人として優れていれば、官僚としての才能も保証される、という儒教理念に基づいて行なわれてきました。

    それに対して曹操は、貪欲だったり、賄賂を受け取るような人物であっても、才能さえあればいいとしたのです。

    あわせて文学を宣揚し、儒教に通じているか否かではなく、文学に優れているか否かを人事基準として、儒教を相対化しようとしました。

    中国史上でも、儒教に異議申し立てをしたのは、ほかに近代以降の魯迅と毛沢東しかいません。曹操が果たそうとしたことは、それほどまでに革新的なことだったのです。

    余談ですが、それによって儒教は打撃を受け、それまで普及していなかった仏教が後に広まる契機となります。それがなければ、日本への仏教渡来もどうなったかわからず、その意味で曹操は日本史にも影響を与えているのです。

    それから曹操は、漢の土地制度と税制を根本から変える改革も行なっており、「中国史上屈指の改革者」と評して過言ではありません。

    三国志の時代は、順当に行けば、袁紹による国家ができたことでしょう。名門の家系に生まれただけでなく、戦い方も王道です。彼は、漢と同じ国家像を志向しています。しかし滅びゆく漢と同じことをしても、無理があります。

    そうした袁紹に対し、曹操は漢に代わる新たな国家像を提示できた。だからこそ、勝利を収められたのではないでしょうか。

    なお、10年ほど前、中国河南省で西高穴二号墓が発掘され、曹操の墓ではないかと話題となったことは、記憶に新しいのではないでしょうか。発掘状況と文献を精査すると、曹操の墓で確実だといえます。

    ■劉備は諸葛亮に利用された

    ※省略

    三国志の時代に、裸一貫から皇帝にまで上り詰めたのは、劉備ただ一人です。曹操は漢の高官の息子ですし、孫権も弱小とはいえ豪族の出身。何もないところから成り上がった劉備の能力は、やはり極めて高かったといえます。

    劉備を支えた諸葛亮は、『演義』では天才軍師として描かれます。しかし、持ち上げられすぎているきらいがあり、それがために苦手という人もいるでしょう。

    実際の諸葛亮は、自分の得手不得手をよくわきまえた人物で、経済政策を苦手としていました。ですから例えば、劉備に嫌われていながらも、経済手腕には長じていた劉巴を、何とか高い地位につけようとしています。

    戦いの面で言えば、戦略と戦術に分けられますが、諸葛亮は戦術が苦手でした。戦術は騙し合いの世界なので、どちらかというと、人格者ではないほうが優れている。その点、諸葛亮はまっとうな人間であり、嘘や騙し合いの必要な戦術は、さほど得意ではなかったと思われます。

    しかし、戦略には優れていました。よく「天下三分の計」といいますが、それ自体は、あの時代であれば考え得ることでしょう。むしろ特筆すべきは、劉備という存在に目をつけたことにあります。

    諸葛亮は、漢を敬慕し、純粋に「漢再興」を目指していました。ですから、劉備に三顧の礼を受けた時、内心狂喜したのではないでしょうか。

    諸葛亮は、劉備が漢帝室の姓を持つことと、彼が優れた武人であることに注目し、漢再興の旗頭として位置づけることを考え出した──。(続きはソース)

    8/27(火) 12:14配信
    https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20190827-00010000-php_r-pol

    ★1:2019/08/27(火) 23:45:46.81
    https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1566921900/


    【【歴史の真実】三国志の英雄・曹操、劉備、孫権は史実でも本当にすごかったのか?】の続きを読む


    国の最古の歴史書は「1人の部下の記憶力に頼って書かれた」…という衝撃! (2019年7月21日) - エキサイトニュース
    落語家・桂竹千代による、笑って学べる「古事記」の爆笑解説、スタートです!そもそも「古事記」って誰が書いたの?ってあたりから教えていただきましょう。あまりにも大胆な ...
    (出典:エキサイトニュース)


    元々は中臣氏の一族で初期の頃には中臣 鎌子(なかとみ の かまこ)と名乗っていた(欽明天皇朝で物部尾輿と共に排仏を行った中臣鎌子とは別人)。その後中臣 鎌足(なかとみ の かまたり)に改名。そして臨終に際して大織冠とともに藤原姓を賜った。つまり、生きていた頃の彼を指す場合は「中臣鎌足
    13キロバイト (1,832 語) - 2019年7月13日 (土) 21:41



    (出典 tabi-mag.jp)


    権力争い。

    1 樽悶 ★ :2019/08/09(金) 18:34:37.02

    ※省略

    『日本書紀』推古31年(623)是歳(このとし)条に、象徴的な記事が載る。

     新羅が任那(伽耶諸国)を攻撃すると、任那は新羅に靡(なび)いた。そこで天皇は新羅を討とうと考えたが、蘇我系の重臣は、「まず視察して状況を確かめるべきだ」と、慎重論を展開し、新羅の肩をもった。これに対し中臣氏は「軍備を整え、新羅を討ち任那を奪い返し、百済に帰属させたい」と主張した。中臣氏の献策は退けられ、新羅に使者が向かった。ところが、このあと中臣氏らは新羅に遠征を始めてしまい、蘇我系重臣たち慎重派の面目は潰されてしまった。ここに、豪族間の意識の差が表れているし、外交の混乱が表出している。またこの時、蘇我系重臣は、「百済はよく嘘をつき信用できない」と酷評している。ヤマト政権は、狡猾な百済に、何度も煮え湯を飲まされていたようだ。

    ※省略

     百済は、ヤマトの外交方針を変えるために禁じ手を使ったようだ。それが乙巳の変(645)で、百済に冷淡な蘇我入鹿を*たのだ。

     証拠はある。乙巳の変のあと成立した親蘇我派の孝徳政権は、突然同盟国だった百済を「スルー」しはじめる。中国に使者を送るなら百済の西海岸を経由するのがもっとも便利なのだが、新羅から陸路を通り、百済の北側の海岸に出るようになった。これは国交断絶であり、その理由は蘇我入鹿暗殺の黒幕が百済だったから、と推理すれば、辻褄が合ってくる。

    『日本書紀』に、怪しい記事がある。蘇我入鹿暗殺を目撃した親蘇我派の古人大兄皇子は自宅に駆け戻り、「韓人(からひと)が入鹿を*た。胸が張り裂けそうだ」と絶叫している。「韓人」を直訳すると、「外国人」となる。しかも、朝鮮半島の人間をさしている可能性が高い。ただし『日本書紀』は、「韓人」を「韓政(からのまつりごと)のこと」と説明している。

     こういうことだろう。「蘇我入鹿は半島人に*れた」と巷間では噂され、『日本書紀』編者はそれを「外交問題が原因で蘇我入鹿は*れた」と説明し、お茶を濁したにちがいない。韓人が入鹿を*たことは、秘密にしたかったのだろう。『日本書紀』は親百済派の歴史書なのだ。

    ■百済王子・豊璋

     入鹿暗殺の主犯中大兄皇子と中臣鎌足は、孝徳天皇が亡くなり実権を握ると、外交政策を転換し、一度滅亡した百済に救援軍を送りこんでいる。民衆が「負けるに決まっている」と非難を浴びせる中での、遠征強行だった。当然大敗北を喫した。いわゆる白村江の戦い(663)だ。

     それにしても、なぜ中大兄皇子と中臣鎌足は百済救援に固執したのだろう。連載中述べてきたように、人質として来日していた百済王子・豊璋(ほうしょう)が親百済派の中臣氏の系譜に潜り込み、中臣鎌足を名乗ったのだと筆者は考えている。豊璋が衰退していく百済を救うために、邪魔になった蘇我氏を、滅ぼそうと考えたのだろう。

     豊璋が中臣鎌足だった証拠は、いくつも掲げることができる。

    1.豊璋の来日は舒明3年(631)、かたや中臣鎌足登場は皇極3年(644)のことで、ふたりは同時代人だ。

    2.白村江の戦いの間、豊璋は百済にもどっていたが、中臣鎌足は歴史から消えてしまう。中大兄皇子の人生最大のピンチに、中臣鎌足はなにをしていたのだろう。豊璋となって百済に帰っていたのではなかったか。豊璋はこの戦いで行方不明になるが、中臣鎌足はそのあと何食わぬ顔で、『日本書紀』に再登場している。

    3.中臣鎌足の墓・阿武山(あぶやま)古墳(大阪府高槻市)から「織冠」が出土したが、歴史上織冠を下賜されたのは、豊璋と中臣鎌足だけだ。問題は、阿武山古墳が百済の王墓と同じ様式だったことで、日本では他に例がない。なぜ日本の神を祀る家に生まれた中臣鎌足が、百済式の墓を選択したのだろう。

     中臣鎌足は豊璋と断定してよいと思う。

    ※省略

    それにしてもなぜ、中大兄皇子は中臣鎌足(豊璋)と手を組んだのだろう。蘇我氏が弟の大海人皇子を将来の皇位継承候補と期待していたからだろう。「蘇我入鹿を*ば即位できます」という中臣鎌足のそそのかしに、中大兄皇子は乗ったのだろう。玉座に目が眩んで、蘇我氏の築き上げた東アジアの絶妙なパワーバランスと精密なネットワークを破壊してしまった。

     こうして、ヤマト政権は、7世紀の外交戦も失敗してしまったのだ。原因は、政権内部の主導権争いであり、そこを海外の工作員たちに、つけ込まれた形になった。これは、古代だけの話ではない。現代でもわれわれの知らない間に、さまざまな国のロビー活動や「工作」が行われているはずだ。日本人は島国のお人好し(世間知らず)だから、用心に越したことはない。(関裕二)

    8/8(木) 6:00配信
    https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20190808-00545721-fsight-pol


    【【衝撃真実】中臣鎌足の正体は百済の王子か?親百済派の中臣氏の系譜に潜り込み、中臣鎌足を名乗った?】の続きを読む


    新しい器では酒も新しくなれ 蒲生氏郷 - 農業協同組合新聞
    信長の婿として. 蒲生氏郷は、戦国時代に"人づかいの名人"と呼ばれ、同時に、 「経営感覚に優れた武将だ」 といわれた。氏郷は少年時代に父の計らいで織田信長の人質に ...
    (出典:農業協同組合新聞)



    (出典 koboku.jp)


    三人、言っちゃった!

    1 風吹けば名無し :2019/04/02(火) 11:45:28.56 ID:cPqaukuna.net

    前田利家ですね
    これがメンタリズムです


    【戦国三大過大評価武将?「浅井長政」「蒲生氏郷」「井伊直政」あと一人は?】の続きを読む


    会津92万石 蒲生氏郷が密かに感じていた不満とは | 戦国武将の危機管理 | 小和田哲男 - 毎日新聞
    蒲生氏郷は戦国大名六角氏の重臣、蒲生賢秀の子で、賢秀が織田信長に降ったとき、信長のもとに人質に出されている。信長は氏郷の将来性を見こみ、自分の娘を氏郷に ...
    (出典:毎日新聞)


    蒲生 氏郷(がもう うじさと)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。初め近江日野城主、次に伊勢松阪城主、最後に陸奥黒川城主。 蒲生賢秀の三男(嫡男)。初名は賦秀(やすひで)または教秀(のりひで)。キリシタン大名であり、洗礼名はレオン(またはレオ)。子に蒲生秀行。 蒲生氏は藤原秀の系統に属する鎌倉時代からの名門であったという。
    43キロバイト (6,901 語) - 2019年6月18日 (火) 22:15



    (出典 sengoku-his.com)


    何で有名?

    1 風吹けば名無し :2019/06/24(月) 17:48:47.13 ID:LcTaVIsT0.net

    やたら評価高いよな


    【蒲生氏郷とかいう何か凄いらしいけど具体的になった何が凄いのか分からん武将】の続きを読む


    Netflix、戦国武将・伊達政宗の実録ドラマを製作へ ─ コミックと日本美術に敬意、北米ドキュメンタリー製作チームが手がける - THE RIVER
    戦国武将・伊達政宗の生涯を、Netflixと米国のドキュメンタリー製作チームがドラマ化する「Age of Samurai: Battle for Japan(原題)」が製作されることがわかった。
    (出典:THE RIVER)


    伊達氏第16代当主・伊達の嫡男として、正室である最上義守の娘・義姫(最上義光の妹)から生まれた。幼名は梵天丸。 天正5年(1577年)11月15日、元服して伊達藤次郎政宗と名乗る。諱の「政宗」は父・輝伊達家中興の祖といわれる室町時代の第9代当主・大膳大夫政宗
    76キロバイト (12,499 語) - 2019年7月6日 (土) 11:38



    (出典 img-cdn.guide.travel.co.jp)


    オレは好きだ。過大評価ではない、少し生まれるのが遅かっただけだ。

    【伊達政宗は過大評価!天下なんて無理!「ちょっと何言ってるかわかんない、」】の続きを読む

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